喋るってことは歌うことなんです。歌うってことは語ること……。
そう教えてくれたのは、故・日高晤郎先生だった。(享年74才)
日高先生は、ことさら「先生」と呼ばれることを嫌った。先に生まれただけの先生なのか、先んじて生きているから先生なのか、たとえ後者であったとしても、私のことを先生などとは呼ばないでください、といつもいっていた。だから私は晤郎さんと呼んだ。
1977年、晤郎さんは仕事で札幌へ来ていた。そのときSTVラジオのディレクター、岩本芳修(ほうしゅう)氏に出会い、翌1978年、札幌でラジオの仕事がスタートする。その5年後(1983年)自分の名前が冠につく「ウイークエンドバラエティー日高晤郎ショー」がスタートした。
そのとき、私は高校三年生。夜な夜なラジオを聴く暮らしが当たり前の時代。父親から面白い番組が土曜の昼に始まったと告げられ、それから夢中になって晤郎さんの番組を毎週聴いていた。
高校を卒業し、私は営業の世界に足を踏み入れる。2年後の成人を迎えた年、東京の新宿本社へ移動した。東京暮らしは8年9か月続いた。1994年9月、北海道へ帰ってきた。そしてとある土曜日にラジオのスイッチを入れたら、懐かしい晤郎さんの声が流れてきた。「感動した」なんていう、そんなことばでは表現しきれない興奮を覚えた。
でも、このときはまだ、晤郎さんに私が弟子入りし、自分のラジオ番組を持つ日が来るなんて夢にも思っていなかった。そのときの私は28才だった。